どうみてもチラシの裏

チラシの裏に書くような安易なブログです

世の中の宗教からわかること

ある日突拍子も無く、思いついた。

 

宗教に全然詳しくも無いし、特にこれといったモノを信仰している訳ではない無宗教の人間がちょっと思っただけなので、的外れかもしれない、そんな仮説。

 

あと最近文章をあまり書いていなかったので、文章を書く練習(リハビリ)程度で、テキストのみで書いていこうと思った。

 

宗教に関して知っている事・先入観

自分が様々な宗教に大して知っている知識はこんなのがあります。(少ないし結構偏った知識だと思う)

 

【信者】と書いて【儲(かる)】と書く

これは、宗教を興した側いわば運営側視点。

宗教はいくら儲けようと、お布施や献金、宗教に関わるものの販売、葬儀、礼拝などの【宗教行為】によって得られた金銭に対する税金は非課税になっている。

 

信者が集まれば集まるほど寄付の額も集まるわけだから、世界三大宗教なんかの総資産は凄い事になってそう。(入ってくる額と寄付等によって出て行く額の収支報告データなんかがあればいいんだが。)

 

そういった詳細なデータを一般に公開していない所も数多くあるので、こういった話が出るのも当然の事。

神が存在しない宗教、解釈なんかもある

宗教と聞いて=神

これを連想する人も多いだろうが、意外に神という存在を信仰対象に置いている所と置いていない所、神は自分自身の中に存在するといった考えや、万物全てに神は宿っているとされる考え等がある。

 

自己啓発なんかで有名な【引き寄せの法則】なんかも【自分自身に神は存在する】という教えがある。

 

ちなみに引き寄せの法則というのは、行動学・心理学的に考えれば当然の事を言っているだけであり、突然大金を手にするとか、宝くじの1等に当たるとか、余命○ヶ月の知り合いの病気が治ったとか、そんなオカルト思考的な不思議な力の働き等は無い。

 

300万払って有名な自己啓発のプログラムを購入し、10数年。未だにその借金を返せずに苦労している自分がいうんだから間違いない。

様々な宗派や宗教がある

同じ宗教の中でも様々な宗派に分かれている所もある、簡単な例で言うとキリスト教なんかでは、聖書の教えの解釈が真逆な所もある。

 

邪神を崇拝したり、人類滅亡を唱えたりなんかする邪教とかもある。

 

無数にある宗教の共通点

そんな様々な教えや考え方がある宗教だが、ほぼ全てに当てはまる共通点がある。

礼拝や祈祷、祈り等を決まった(決められた)時間に行う

これは習慣化と時間管理能力を養う為のものでは無いかと予想される。

 

頭が凝り固まっていない幼い内から、【決められた時間に習慣としての行動をさせる】事は、生活に関わる他の習慣活動(起床・就寝・食事・入浴・掃除・洗濯・歯磨きなど等・・・)を形成していくに当たっていい影響を持つ。

 

習慣化に慣れていない人間は、仕事で疲れたり他にやりたい事等があると、それを後伸ばしにしたり、やらなくなってしまう。それが習慣化されてしまうと、健康は害する上、堕落した生活に陥ってしまう危険性がある。

 

この行動を習慣化するという事は、より信仰を強める為のものか、はたまた信者に対しての為なのかは分からない、だがこの行動の本質は信者にとってプラスになると思う。(礼拝や祈祷等で費やした時間は別として)

 

崇拝や尊敬という考え方

ここから学べるのは、【人間はいとも簡単に他人に影響される】という事

 

結論から書くと、崇拝や尊敬という考え方は、第三者が意図的に自身の価値観や概念を押し付けなければ、自身で考えるという力を育てるのにはいい。逆に言えば、介入された教えは自身の考える力を無くし、教える側にとって都合のいい存在になるだけだ。

 

また、最近の教育では答えを用意して、その考え方に誘導するという手口もあるみたいだ。

 

A【キリスト様がこうっつってんだけどぉ、これはどういう事を言ってるかわかるぅ?】

 

B【これは○○でこういった事じゃないですかね?】

 

A【残念~、実は○○で○○だから、こういう事を教えてるんだよね。まあ、そういう考え方もあるみたいだけど、これが正解なんだよ。】

 

といった風に答えを用意し、あたかも真実がこれであるかのように話す。それが真実か否かもわからない答えであろうと。接触回数が多ければ多いほど、根拠の無い信頼は増していき、その教えも磐石なものになっていく。

 

信仰対象が人でも神でもいいが、映画やドラマ、漫画やアニメのキャラクターを好きになる、どんな人間でも尊敬する存在のしぐさや行動を真似した事が一度でもあるのではないだろうか?

 

こういった模倣したくなるような存在(もしくは思い込ませる存在)を信仰対象に置く事で、人間はあらゆる困難や障害に耐えられる、(乗り越えられるとは言っていない)。

 

現実での近い例で言うと、仕事、職場での人間関係だ。

仕事の離職原因の中でもっとも多い理由に、人間関係がある。

 

仕事を続ける上で、一番長続きする要因は【一緒に仕事をしたい存在がいる】というのも真理である。どれだけ給料が少なくても、過酷な労働環境であっても、その労働環境の中に信仰対象が存在すれば、耐えれるのである。逆も叱り。

 

宗教とは関係の無い現実世界での話なら問題は無い。

 

だがここで宗教には問題点がある。

現存する人間によって作られた作品では、千差万別、個々の人間によって解釈は変わり、それに影響されるかされないかは自由であり、フリーダムだ。

 

宗教では

オリジナルの開祖(例・キリスト)→聖書やキリストの教えを解釈した人間=現在のキリスト教における宗教・宗派となる。

 

そして入信した人間は、その解釈を教えられる事になり、こういった【教え】という形態というものは、価値観を操作されるのではないか?という事。

 

【作品】⇔【自分】で、その本質を見るのは自分の価値観や概念だ。だが宗教が絡んでくると、そこには第三者の価値観や概念が混じってくる。

 

【自分自身の頭で考え、解釈しなさい】と言っている所は、教育上よろしいが、一定の【押し付け】がある所では、自身で考える力というものを阻害されているのではないか?

 

あとがき

とりあえず久しぶりに書いたから、文脈がぐちゃぐちゃだなぁ~、しばらくはリハビリで、こっちのブログで色々書くかも。